2006/01/17 ?

2006年1月17日
○続き

聞いた話のダイジェスト
(軍隊関係の呼称など勉強不足の為聞き間違いの可能性あり)

・何年戦争に行ってたのか?
38年から45年の7年間。北支那
国民党とも戦ったが主にパーロ(八路軍、共産軍どものこと)

・実際に何をやっていたのか?
最初は擲弾兵をやっていた。迫撃砲を撃っていた。
計算が一番速かったのが自慢。
手先が器用だったため衛生兵の研修を半年うけて、後はずっと衛生兵をやっていた。

・戦闘ってどんな感じ?
銃声がバンバンとかガガガガガとかテレビや映画ようではなく
あたり全体に反響してザァーーーと雨が降るような音。

・衛生兵ってどうだった。
下士官扱いなので行軍は荷物が少なくて楽だった。
が、いざ戦闘が始まると歩兵は塹壕のなかに入っていられるが
衛生兵は弾丸の飛び交う中を助けに飛び出ていくのが仕事なのでしんどかった。
遮蔽物のまったくない平原での戦闘は命がいくつあっても足りなかった。

・国や天皇のために本当に死のうと思っていたのか?
それが当たり前のことだったので特に何も疑問に感じなかった。

・でも、実際戦闘中に命が惜しくなるようなことはなかったか?
最初は怖かったがすぐ慣れてそのような感覚はなくなった。

・本当に命を投げ出すことに疑問を感じなかったか?
それが当たり前のことだったからねぇ
死ぬのは当然怖かったし、無駄死にしたくなかったが
「もう面倒くさいからここで死んじまえ」
という気持ちには何度もなった。

・一番キツかった戦闘は
トーチカ攻略
決死隊に同行した時

・衛生兵なのに決死隊に同行するのか?
衛生兵が同行するのとしないのとでは兵の士気が違う
助けてくれる人間いるのといないのでは士気が全く違う
自分も手榴弾を持てるだけもって同行した

・実際人間を殺した?
何人もパーロを殺した
迫撃砲で吹っ飛ばしたし、銃剣で突き殺しもした
殺さなければ殺された、それが戦争

・大戦末期は何をしていた
内地へもどってきて船に爆薬搭載して敵艦に突っ込む訓練

・人間魚雷みたいな
あんなたいそうなものじゃない。
ただの船。そこらへんの漁船に爆薬載っけて突っ込む訓練

・終戦時は何をしてた
敵に軍事物資を渡さないように物資の廃棄を行っていた
全部壊したり、燃やしたり
戦後2ヶ月そんな仕事をして東京に戻ってきた

時間が無くてこのくらいの内容しか聞けんかった
もっと話を聞きたいな
今度はビデオカメラを持っていこう

今度聞いてみること メモ
・中共の騒ぐ南京大虐殺のようなことはあったのか?
・戦後世の中がアメリカ型民主主義へ価値観がガラっと変わったのはどう思ったのか?
・またその価値観の変貌についていけたのか?
・戦争から帰ってくるとやっぱりみんなセクースしまくったのか?団塊世代誕生の秘密
・PTSDとかならなかったのか
・ヒロポンやったことがあるか
・戦後の食糧難、インフレってどんな感じ
・最初に聞いたラジオ放送は?テレビ放送は?
・記憶に残っている一番古い総理大臣や芸能人

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